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[社説]「市民が存在しない市民運動」

Posted November. 27, 2000 19:55,   

市民運動に生気がなく、やる気をなくしているようでは、結局、誰が損を被るのだろうか。市民団体が自分たちの役割を果たせず、解散する場合、誰に得となろうか。今日の市民運動に対する専門家及び関係者らの「反省と自嘆」を通じて、ふとそうした考えが頭を過ぎった。

「韓国市民運動の再定立」というテーマで開かれた市民団体大会の討論は、そのような意味で非常に意義深い討論であった。近頃は、なぜか調子が出ず、市民とは間隔ができてしまったような市民運動の現住所を確かめる契機となったのである。

我々は、市民団体が自ら下した「市民も対策もない運動」に成り下がっているという自己診断に注目している。

つまり、政府や政治圏、財閥に対する批判が、以前ほど鋭くもなく、共感を得る事のできないもので、国民の反応もそれほど芳しくないことを、市民団体が自ずから把握していることは幸いである。

市民団体の外部に「有名人が集まり、マスコミを中心に繰り広げる市民運動は、遠からず限界に達するはずだ」という批判や警告に耳を傾けているというようにも思われる。

今年の総選挙当時、落選運動で勢いをあげていた市民団体が、最近は権力の不正や違法など、その役割を果たすべき事柄に対して、全く対応していないという批判もある。

「権力のない一小団体」に過ぎない非政府機関(NGO)が、力を出す源は、政府や財閥は備えられない道徳性にある。こういう側面で道徳性を守り、新たに体制を整える意味で政府の支援を拒否する努力をするのは当たり前の事である。市民の自発性に基づいた財源を設けず、政府やどこかの企業から支援される限り、どんなNGOでも世間の批判から自由にはなれないはずだ。

韓国NGO運動の危機は、道徳性、透明性の危機へとつながる。今の無力症は一部リーダーの不道徳な行為によるものでもある。

市民運動は、「名望ある著名人によるデパート式問題提起」から脱し、市民の参加の中に専門家が中心となって対策を講じるといった運動を行うべきだ。市民団体が政党のようにすべてのイシューに対して論評声明を出し、財閥や公企業の弊習である「組織利己主義」と勢力増強にのみ力を注いでいると言う批判を聞き流してはいけない。

そのような市民団体の政治偏向と官僚的病弊が市民を背かせ、今日の危機を招いたという指摘にも耳を傾けるべきだ。