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「弓の名手のDNA」の限界

Posted November. 23, 2021 08:24,   

Updated November. 23, 2021 08:24

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李成桂(イ・ソンゲ)は、弓の名手で強弓を使うことで有名だった。高麗末、黃裳(ファン・サン)という将軍がいた。元はモンゴル人が建てた国であるため、多くの弓の名手がいた。黄裳は、元に行き、官職に就き、元の弓手たちと試合をしたが、優れた腕前を発揮した。皇帝がどうしてそんなに弓がうまいのかと、黄裳の腕に触れたという。

老年に李成桂と試合をした。50本の矢を射るまでは、互いに一本も外した矢がないほど激しい勝負を繰り広げたが、50本の矢を越えると、黄裳の体力が落ち、的を外しはじめたという。これは実力の差というよりは、年齢による体力の差と見るべきだから、黄裳の敗北とは言えないだろう。

モンゴル軍は馬や弓で世界を制覇したというが、高麗の弓手の実力はモンゴル軍を驚かせた。歳月が経って、弓が火縄銃に変わった後は、朝鮮の砲手の実力が優れていた。満州でヌルハチが興起すると、明が討伐戦を繰り広げ、朝鮮に兵力を要請した。敗れたものの、この時の戦闘でも朝鮮の砲手たちの実力は抜群だった。明軍もそれを知って、朝鮮の砲手を積極的に要請してきた。17世紀後半、沿海州で清とロシアの間で国境紛争が発生した。清が軍隊を派遣し、朝鮮軍に支援を要請した。朝鮮は中大規模の兵力の砲手を派遣した。これが羅禪征伐だ。この時、朝鮮軍と清軍が射撃訓練または試合を行ったが、朝鮮軍の砲手の実力はずば抜けてよかった。

現在も、アーチェリーは自他共に認める世界最強で、射撃も世界大会でメダルが絶えない。もちろん、選手たちの骨身を削る努力の結果だが、歴史を見れば、トレーニングと努力を越えた先天的な何かがあるようだ。

19世紀末になると、この素晴らしい射撃にもかかわらず、朝鮮は国を守る能力を持たない。その時まで主力武器は火縄銃だった。ソフトウェアは卓越しているが、ハードウェアで何世代も遅れを取っていたのだ。ソフトウェアとハードウェアの不均衡はこのように恐ろしい。

歴史学者