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妻への歌

Posted October. 01, 2021 08:30,   

Updated October. 01, 2021 08:30

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官僚生活の浮き沈みを経験したが、白居易が貧困に苦しんだ痕跡はない。「俗世に出てきたようで、野に埋もれたようで、忙しくも、また暇でもない」中庸の人生を打ち出し、年末になると糧が余っているのが恥ずかしいというほどの余裕まで見せたからだ。安貧樂道の化身のように伝えられる戦国時代の黔婁と比較した発想そのものがむしろ珍しい。政争に巻き込まれ、南の江州に左遷され、落ち込んでいた妻を慰めようと冗談交じりに言ったのかもしれない。「薄暗く哀れな」家の風景を描いたが、焦りや不平の気配はない。貧しさにも等級があるという誇張された言い訳は、自らを慰める声のようでもある。

個性ほど妻に対する詩人たちの態度もまったく違っていた。李白は、「三百六十日、毎日酔っぱらっているから。李白の妻であっても、太常の妻と何が違うか」として酒豪らしい覇気を誇示した。遠く離れた妻に杜甫は「懐かしさに苦しむ牽牛と織姫でも、秋になれば天の川を渡って会えるのに」と、切ない気持ちを隠さなかった。元稹は、27歳で早世した妻を追慕し、「急いで花の山を通り過ぎて見向きもしないのは、半分は私の修養のせい、半分はあなたのせい」として純愛の真骨頂を見せた。