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信頼の徴

Posted September. 30, 2021 08:26,   

Updated September. 30, 2021 08:26

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アンリ・マティス がこの絵をパリで初めて公開した時、多くの批判を受けた。ごく少数を除いてマティスに友好的な評論家までも酷評を浴びせた。その中のある評論家は、よくない作品と失望しながらもこの絵を購入した。理由は何だったのか。

1900年代初めから新しい技法の実験に没頭したマティスは、1905年の完成作をサロン・ドートンヌ(秋季展)で公開した。派手な色使いの出品作は論争を巻き起こし、その中心にこの肖像画があった。絵のモデルはマティスの妻アメリ。アメリは華やかなよそ行き姿で夫の前でポーズを取っている。手袋をつけた手は派手な扇子を持ち、頭には豪華な帽子をかぶった。ここまでは良かった。問題は結果だった。様々な色をまるで試すかのように大まかに塗ったような絵は未完成に見えた。輪郭線を全く描かず、モデルが誰なのかもわからなかった。顔はアフリカの仮面のようで、帽子は果物カゴのようにも見えた。アメリはもとより観客も憤るほかなかった。保守的な評論家ルイ・ヴォークセルは野獣の作品のようだと嘲弄した。しかし、この言葉がかえってマティスに「野獣派」という名前を与えた。米国から来た評論家レオ・スタインはさらに辛辣だった。「私が今まで見た中で最も厄介な絵の具の汚れ」と酷評した。そう言いながら、この絵を購入した。実験なく良い芸術が誕生しないことを知っていたからだった。

1903年にパリに移住したスタインは、妹のガートルードとともに前衛的な芸術家たちの後援者となった。彼らは気に入らない作品も購入し、美術家の士気を鼓舞した。マティスは当時、3人の子を持つ家長で、新作への反応が悪く、萎縮していた。スタインが物議を醸した作品を購入したのは、信頼の徴(しるし)だったのだ。その後も、スタイン兄妹は彼の実験的な作品を購入し、マティスは20世紀の美術の巨匠となった。