Go to contents

ストーリー戦争

Posted May. 26, 2021 08:12,   

Updated May. 26, 2021 08:12

한국어

ストーリーも一種の力比べをする。そして勝った方が主導権を握る。例えば、イスラエルやパレスチナと関連して、主に片方の話だけが我々の耳に聞こえるのはそのためだ。ユダヤ人たちは、自分たちが歴史の犠牲者であることを何度も強調する。ナチスの手によって数百万人が死んだのだから、正しい話だ。彼らの受難に関する映画、文学、記録は実にあふれている。「ホロコースト産業」と呼ばれるほどだ。西洋はもちろん、東洋でも彼らの受難について知らない人がほとんどいないのはそのおかげだ。これがストーリーの力だ。ところが、そのストーリーに隠された別のストーリーがある。イスラエル建国後、故郷から追い出され、この70年間あまりを難民や植民の状態で生きていくパレスチナ人たちのストーリーがそうだ。彼らは現実でも追い出され、ストーリーでも追い出される。

世界のマスコミは、イスラエルとパレスチナ間の対立を「戦争」と表現している。しかし、それは戦争ではない。戦争とは同等の力を持った国や集団の間で起こるものであって、一方が他方を数十倍、何百倍、いや比較にならないほど圧倒する時は戦争ではない。相手を高い塀で囲んで巨大な収容所にし、空と地と海で最先端兵器で攻撃することは、戦争であるはずがない。

それを戦争というのは用語の濫用であり、イスラエルのストーリーに屈服することである。そして、彼らがパレスチナ人に加えた野蛮な行為は重要にならず、それも時間が経てば忘れ去られる。これがストーリーの暴力だ。ニーチェの言葉のように「事実はなく解釈だけがある」。解釈戦争、ストーリー戦争というわけだ。世の中はナチスのために死んだユダヤ人少女アンネ・フランクは記憶するだろうが、イスラエルの野蛮な暴力によって死んだパレスチナの子供たちは記憶できないだろう。逆説的に、これがストーリー戦争で敗北しているパレスチナ人の苦痛と涙に注目しなければならない理由だ。我々も彼らのように、植民地主義の暴力にお手上げの時があったのだ。