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許しと自由は同義語だ

Posted April. 14, 2021 08:23,   

Updated April. 14, 2021 08:23

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ほとんど不可能な状況で、許す模範を示す人々がいる。先月公開された映画「モーリタニアン」の主人公がそうだ。もっと正確に言えば、映画がもとにしている「グァンタナモ日記」の著者モハメドゥ・ウルド スラヒがそうだ。

スラヒは、彼の祖国モーリタニアで米国情報機関に拉致された。そして14年間、ほとんどの時間をキューバのグァンタナモ収容所で拘禁された。単なる拘禁ではなく、フランツ・カフカの小説に出てきそうな超現実的な恐怖と脅威が日常だった。ジュネーブ協約に違反する不法な拘禁だったが、9・11のせいで理性を失った人たちは意に介さなかった。彼らは法律の上に法律を制定し、手段や方法を選ばず彼を拷問した。さらに、彼の母親を男性囚人だけがいる★そこに連れてきて、「性的暴行にさらす」という脅迫までした。テロとの関連性を追跡するためだった。しかし、彼らは彼から何も得ることができなかった。罪のない人だったのだ。

2002年に拉致されたスラヒは、2016年に釈放された。30代前半の男性は、40代半ばを超えていた。その間に、彼を恋焦がれていた母親は世を去った。映画を見たり「グァンタナモ日記」を読めば、彼が自分に暴力を加えた国や人々を憎悪する理由はいっぱいだ。しかし、彼は憎悪と復讐の念がなければならないところに、許しを置いた。そのような身振りがどうして可能なのだろうか。彼の言うことに手がかりがある。「わたしは許そうと思います。許したいのです。それが私の神・アラーが願うことだからです。私を拷問した人たちに恨みはありません。アラビア語で、自由と許しは同じ言葉です」。彼が信じて頼る宗教は、恨みや復讐ではなく、許しの方に彼の背中を押しているということだ。ところが許せるためには、恨みや復讐の感情から自由でなければならなかった。だから、許しと自由、自由と許しは同義語だというのだ。それこそ眩しい知恵だ。