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哀悼の終わり

Posted April. 07, 2021 07:24,   

Updated April. 07, 2021 07:24

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誰かを愛することと同様、誰かを哀悼することは自然な人生の一部だ。文学が哀悼に敏感な理由がここにある。若い作家の作品も例外でない。キム・ファジン作家の短編小説『愛の神』もそうだ。

小説の語り手は、増水した川に飛び込んで死んだ弟の死を受け入れることができない女性だ。彼女は、時間が経っても、まるで生きているように弟に対する。梅雨の季節に川に入るとは、なぜそんなに過信したのか。そのように責めることで、弟を死の前の状態に戻そうとする。彼女の心の中では弟はまだ生きている。

このような心理をよく示しているのが『恐竜時代』というアニメ映画に対する語り手の反応だ。母親の恐竜は肉食恐竜と闘い、息絶えつつ、子どもの恐竜に言う。「そばにはいないが、いつもお前と一緒だ」。死んでも心の中にいるから、死ぬのではないという言葉だ。普通、私たちは、愛する人の死に悲しみ、不在を記憶と思い出に変える。これが哀悼の常識だ。しかし、語り手には、そのように生きていることは生きていることではない。

語り手は、自分の漫画の中に弟を実際に違うように描く、漫画では弟は無謀ではなく、むしろ臆病者だ。だから川で死ぬはずがない。弟が死んだ後、ばらばらになった家族も、漫画では和やかに一緒に暮らす。暴力的だった父親は泣き虫で、無気力で無関心で神経質だった母親は怪力の持ち主として描かれる。このような想像の中に逃避するのを見ると、語り手は常識的な意味の哀悼に失敗した人だ。しかし、逆説的な意味で、哀悼しないということも哀悼の一つの方法だ。不在の人を生かそうとする空しいジェスチャーよりも真実の哀悼の精神はないからだ。哲学者ジャック・デリダの言葉のように、哀悼の失敗が哀悼の成功であるかもしれない理由だ。しかし、フロイトの言葉のように、どれほど苦しくても哀悼は自ずと終わる。いつかは。