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「生活を取り戻したい」

Posted July. 20, 2020 08:29,   

Updated July. 20, 2020 08:29

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今から約20年前にイ・ジョンスというコメディアンがいた。彼は、「一人遊びの真髄を見せよう」という流行語を生みだした。そして時間は流れ2020年、今や「大自宅隔離の時代」を迎えた私たちは、あの時イ・ジョンスが言った「どうせ一人で生きる世の中、友人が何の意味があるのか」という言葉にただ笑うことができなくなった。

 

一人遊びの方法に対する悩みは、21世紀に初めて出現した珍現象ではなく、個人主義に染まった若者が、共同体を崩壊させようとする前兆でもない。イ・ジョンスが舞台に登場する時に叫んだ流行語「天上天下唯我独尊」は、約2500年前にインド北部の小さな国の王子、ゴータマ・シッダールタが母親のお腹から出てくるやいなや言った言葉だという。そのためか仏教修行法には一人ですることが多いが、その中で最も有名なのはおそらく瞑想だろう。

瞑想する僧侶がよく見えたのか、ソンビたちも静かに瞑想を始めた。儒学者の瞑想法は概ね中国の北宋の時代に数人の哲人たちの討論の末に確立されたが、中でも程イ(1033~1107)の功労が大きかった。程イは、人の心をビンに例えた。空のビンを川に投げて、水が入らないことを願うことはできない。ビンの中に水が入るのが心配なら、方法は一つだけだ。ビンをあらかじめ満たしておけばいい。心を無にするには心を満たさなければならないということだ。

一方、朝鮮を設計した人物、鄭道傳(チョン・ドジョン、1342~98)は瞑想の問題に少し別の角度で接近した。世の中の人皆が瞑想すると言って寺に行って静かに座っているとしよう。「では牛は誰が飼うのか」

現実主義者の鄭道傳は、誰かがカフェラテの助けで集中して在宅勤務をする時、まさにそのコーヒーを誰が作ったのかといった問題に関心があった。昔も今も自宅隔離と一人遊びは他人の助けなしに魔法のようにできるものではない。誰かは農作業をし、誰かは服を作らなければならない。

 

もし山での瞑想だけが解脱の近道なら、私たちは解脱の機会が不公平に分配されているという事実は認めなければならない。山の中で座って瞑想する修行者は、彼を奉養する人々が解脱する機会を奪っている宗教資本家ではないのか。鄭道傳は、僧侶が瞑想する間、寺の暮らしの世話をし、牛にエサをやり、畑を耕す人々のことを考え、心穏やかではなかった。

羽化登仙を夢見た道家の思想家も、同様の批判を避けられなかった。彼らは、汚い俗世を離れ、自然を友とし、悠々自適に美しい暮らしを送り、そのような人生を称賛する詩や散文を多く残した。だが、脱俗は高価な趣味だ。隠居者らが自然を友とし、瞑想する贅沢を享受し、美しい句を書くことができるよう誰かは汚い俗世で紙と筆とすずりと墨を作って売りに出し、隠居者の召し使いは少なくないお金で品物を買っただろう。歴史は私たちに教える。あることが誰にでも許されるように見える時でさえ、実際は誰かだけに許されるということを。誰かがインターネット空間に自宅隔離、予防対策などについて格好よく語っている間、誰かにはコメントを残す時間もない。

時間が流れ、私たちが今残している文章やコメントはビックデータに蓄積され、22世紀にある歴史学科の大学院生の博士論文のテーマになるだろう。彼が広範囲に収集したデータを基に「21世紀の新型コロナ時代には韓国人の大半が家で一人で遊んだ」と意気揚々と主張する時、彼の指導教授がこのように答えることを期待する。

「私が一番嫌いな言葉の一つが石器時代だ。土地を掘ると度々石器が出てくるので、石器時代、石器時代と言われるが、考えてみよう。君が無人島に漂流すれば石器も少しは作るだろうが、木器を多く作って使わないだろうか。先史時代の人類もそうしただろう。ただ、地中に石器が残っていたにすぎない。君もインターネットに残された記録がその時代の全てだと考えてはいけない。インターネットに残されず、コロナウイルスが食べてしまった現実世界の質感についても考えてみなければならない」

アン・ドンソプ中国湖南大学岳麓書院助教授


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