Go to contents

豊かな軍隊の弱点

Posted May. 12, 2020 08:17,   

Updated May. 12, 2020 08:17

한국어

「管鮑の交わり」とは、管仲と鮑叔牙の篤い友情の代名詞だ。後代には「友情」が強調されるが、本来の意味は陣営を越えて国家の未来を優先する態度、度量の大きな決断の結果だ。管仲は斉の王位後継者争いで、桓公の反対に立ち、桓公を殺そうとしたという説もある。しかし、鮑叔牙の推薦で管仲は桓公の宰相に起用された。管仲は時代の変化を読み、革新的な富国強兵策を提示することで、新たな時代を開く先謳になり、春秋時代に斉の桓公に初の覇権を抱かせた。

その後、斉は戦国時代まで戦国七雄の一国として、強豪の地位を維持する。しかし、先発走者だったという名声に比べて、斉の桓公の時代の後は、明確な活躍がない。スポーツに例えれば、毎年専門家がその年の優勝チームを予想する時、強豪枠には入るが、優勝戦力としては議論されないチームと似ている。戦国時代の統一戦争で斉は長所の多い国だった。山東地域は伝統的に塩と鉄の産地だ。戦略物資が豊富で財政が豊かだった。この地域の人々は、他地域に比べて体格が大きいとされ、遼東遊牧民の軍隊を受け入れることも容易だった。中央部に位置した国々は、互いに我を忘れて角逐戦を繰り広げなければならなかったが、斉は東側にあり、紛争を最小化して力を蓄積することも有利だった。

斉は、なぜ長所を生かすことができなかったのか。『呉子兵法』の著者呉起は、斉の軍隊は表面上は重厚に見えるが、堅固ではなかったと指摘する。重厚というのは、武装も立派で備えることはみな備え、底力がある軍隊のように見えるという意味だ。堅固でないというのは、戦闘意志が強くなく、忍耐力がないという意味だ。重厚な軍隊がなぜ堅固でないのか。それは豊かで安全なためだ。切迫した人は冒険家になり、満足した人は日和見主義者になる。日和見主義者とは、手段と方法を問わず積極的に機会を模索するのではなく、機会は自ずと訪れるとただ待つ人をいう。それが安楽という果実の中に隠れた毒だ。

歴史学者