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「皇帝」を「諸侯」に、朝鮮王朝が「高麗」の記録を書き直した

「皇帝」を「諸侯」に、朝鮮王朝が「高麗」の記録を書き直した

Posted June. 12, 2019 07:41,   

Updated June. 12, 2019 07:41

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朝鮮初期に編纂された『高麗史』が事大名分論の影響で高麗の皇帝国制度を諸侯国の制度に格下げして叙述したという研究が発表された。

慮明鎬(ノ・ミョンホ)ソウル大学名誉教授は、新刊『高麗史と高麗史節要の史料的特性』(知識産業社・2万2千ウォン)で、「歴史学界は、『高麗史』編纂の直書の原則と客観性を過度に評価し、高麗の皇帝制度を十分に認識できない結果を生んだ」と指摘した。

『高麗史』は朝鮮世宗(セジョン)時代に編纂された史書で、高麗時代の研究の基本的な史料とされる。儒教的な歴史編纂方式である「述而不作(史料に基づいて叙述し、編纂者が作って叙述しない)」によって書かれ、史料集のような客観性を持つと受け止められた。しかし、慮氏は高麗史の編纂時、朝廷で高麗皇帝制度の叙述問題で長期間激しい論争が繰り広げられたことに注目した。

世宗は、高麗史の編纂で直書の原則を追求した。正宗と太宗の死で、先代の廟号を皇帝制度である「宗」と称する問題と関連して、歴史的な先例を確保するためだった。

しかし、直書原則は部分的に適用された。高麗が元に服属した時期にも、「高麗皇帝」、「高麗天子」は禁忌語だった。これは、朝鮮建国当初も、明との緊張関係のため、そのまま引き継がれた。鄭道伝(チョン・ドジョン、1342~98)は、『高麗国史』を編纂し、「高麗皇帝」という表現を「僭擬之事(上位の者のまねをすること)」と見て「王」と改書した。

直書原則は、多くの臣僚の反発で後退した。高麗が皇帝制度を施行した時期の君主の赦免令についての叙述もその一つ。臣僚たちは、高麗史料に「大赦天下(天下に赦免令を下す)」とあるのを「大赦境内(領域内に赦免令を下す)」と書き直さなければならないと主張した。世宗は書き直さず、「天下」二文字を削除することで妥協した。このように直書原則の例外は次第に増えた。

慮氏は、高麗には皇帝制度がありえないという偏見が今日まで続いていると指摘した。高麗の宮中儀礼用の俗楽である「風入松」の冒頭に出てくる「海東天子当今帝、仏補天助敷化来」は、「帝」と「仏」の間をあけて「海凍天子である今の皇帝は、仏が助け天が助け、広く教化を展開する」と解釈するのが自然だ。しかし、「帝」と「仏」を続けて海凍天子が「帝仏」という誤った翻訳が一部の論著でなされた。慮氏は、「『帝仏』という分からない存在を作り出して『高麗皇帝』を否定するのは先入観のため」と指摘した。


趙鍾燁 jjj@donga.com