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不便さの美学

Posted February. 26, 2020 08:14,   

Updated February. 26, 2020 08:14

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常にそうというわけではないが、芸術は時に私たちを不便にさせる。ポン・ジュノ監督の映画「パラサイト 半地下の家族」もそうだ。不便さはタイトルから始まる。

宿主に寄生して栄養分を吸い取る寄生虫は、隠喩的に使われれば他人に寄生して生きる人を指す。ストーリーはこの不便なタイトルが暗示し、喚起することから決して外れない。フランスの学者ジェラール・ジュネットによると、作品のタイトルは、「作家の意図と一致する運命を確保すること」が目的だ。それゆえ、タイトルは門の敷居に座を占め、作品が作家の意図どおりに解釈されるよう案内者の役割をする「内在的な信条」だ。

それならタイトルが示す寄生虫は誰だろうか。一次的には半地下に住む家族だ。ギテク、チュンスク、ギウ、ギジョン、彼らは名前から寄生虫(キセンチュン)の「ギ」と「チュン」を借用したアレゴリー的な名前だ。パク社長の家に寄生する庶民が寄生虫にたとえられることは避けられない。しかし、映画が見せる深刻な貧富格差の問題を巨視的に考えれば、必ずしもそう見ることもない。厳密に言って、資本主義体制で誰が誰に寄生するのか。実際には貧しい人が宿主で、金持ちが彼らに寄生して富を作るならどうするのか。こう見ると、映画のタイトルと内容は不便さを越えて一種の逆説であり挑発になる。

ポン監督もこの映画が不便な内容ということを十分に意識したとみえる。彼はインタビューで、「現代社会の貧富の格差が赤裸々にあらわれる辛い面を観客が不便に思うと恐れて、映画に糖衣錠を覆わせたくなかった」と話したことがあるが、これは観客が感じる不便さを予想したにもかかわらず、正攻法を選んでわざとタイトルから不便さを作ったのだ。「雪国列車」でそうしたように、彼は自身の不便な映画が資本主義が作り出す経済的、構造的不平等に対する理由と省察につながることを願ったようだ。不便なことは彼の美学であり政治学だったのだ。彼の映画が健全な理由だ。

文学評論家・全北大学教授