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弱いところを攻撃したナポレオン

Posted February. 18, 2020 08:03,   

Updated February. 18, 2020 08:03

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1796年にナポレオンはイタリア方面軍司令官に任命された。指揮下の師団長らは、この27歳の司令官より年上で実戦経験も多かった。ナポレオンの実戦経験といえば、3年前に大尉としてトゥーロンで砲兵を指揮し、最後に8千ほどの兵力で突撃戦を指揮したこと、パリで市民軍に向かって砲を撃ったことが全てだった。イタリアとオーストリアの連合軍は、要塞化され、険しい地形を占めていた。普通このような地域で攻撃に出て行くには、敵より圧倒的な戦力が必要だ。しかし、ナポレオン軍は兵力も劣勢で、武装は貧弱だった。不利な戦闘を勝利に導くには、兵士の卓越した戦闘力と旺盛な戦闘意志が必要だ。

 

この点でもナポレオン軍は落第だった。フランス革命で誕生した軍隊は兵士の情熱は強かったが、訓練の程度は低かった。兵站体制がめちゃくちゃだったため、軍靴すらまともに支給されなかった。ナポレオンはこのような軍隊をオーストリアとイタリアの軍の間に配置する。いわゆる中央配置戦術というものだが、このような布陣は、「2人1度にかかってこい。いくらでも相手になってやる」と豪語するようなものだ。実際に相手はナポレオン軍を攻撃するために動いた。するとナポレオンは中にさらに深く入り込み、敵より早く動いてオーストリア軍の右側を攻撃し、イタリア軍の左側を攻撃して、それぞれ撃破する。軍隊の側面は致命的な弱点だ。普通、2つの敵の間に布陣すれば、両サイドから同時に敵の攻撃を受けることになるが、ナポレオンは反対に敵のサイドを攻撃する機会と見なした。

ナポレオンの戦術の核心は、戦闘の決定的地点を把握して攻撃することだった。その決定的地点の1つに、ナポレオンは2つの軍隊が出会う境界を挙げた。軍団であれ師団であれ2つの線が出会う場所、または連結点が弱い。周知のことのようだが、分かっていても防ぐことができないことが多い。明らかな論理を瞬間の固執と利己心で実行できずに敗北を招く。分からないことを知ることより、知っていることを実行することの方がより難しい。

歴史学者