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朝鮮の難民

Posted December. 10, 2019 08:36,   

Updated December. 10, 2019 08:36

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戦争は難民を生み、難民政策は人間の良心を試す。韓国の歴史にもそのような事例がある。後金を立てたヌルハチが遼東を占領すると、軍隊や難民の一部が朝鮮に入ってきた。明将軍の毛文龍は、椵島とその周辺の島を占拠して、朝鮮に救援を要請した。朝鮮は、最初は明軍に借りもあったので、毛文龍の明軍が後金を牽制するのに役立つだろうという期待もあった。

しかし、状況はますます悪化し始めた。毛文龍は遼東の難民20万〜30万人を受けて軍を再建し、後金を攻撃すると大口を叩いた。それとともに朝鮮に要求する物量をますます増やしていった。島が狭くなると、難民を陸地に送って居住させた。地方官に片っ端から物品を要求し、満足できなければ、民家を略奪し、地方を攻撃までした。その被害があまりにも大きかったので、朝鮮が丁卯胡乱にしっかりと準備できなかった理由は毛文龍のせいだと言うほどだった。後では朝鮮人を殺して、明には後金軍を殺したとだました。チャンスを狙って、朝鮮を征服しようと陰謀を企てたという説もある。

難民には気の毒だが、毛文龍と暴力的な難民は、朝鮮にとっては頭の痛い種となる。この苦しみを解決した人が明の名将袁崇煥だった。遼東-椵島-朝鮮をつなげて後金に対抗しようという構想を持っていた袁崇煥は、毛文龍を殺害し、彼の軍隊を吸収しようとしていた。これがうまくいかず、後で袁崇煥も処刑されると、毛文龍の残党は後金に投降した。彼らは丙子胡乱の時、南漢(ナムハン)山城を破壊するのに決定的な役割をする。

当時の外交状況や国内の都合上、不可能に近い仮定だが、朝鮮が積極的な難民受け入れ政策を展開して、この部隊も吸収したらどうだっただろうか。彼らは丙子胡乱で、私たちの味方になって手柄を立てることも、新しい被害をもたらして最終的には悲劇的な対立や選択を起こしたかもしれない。世の中が難しいのは、良い結果だけを得る政策はないからだ。昔も今も対立とジレンマのない解決策はないようだ。