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子犬の悲しい目

Posted September. 18, 2019 09:48,   

Updated September. 19, 2019 08:29

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常にというわけではないが、悲しみは時に人間を深める。幼少時代の悲しみはさらにそうかもしれない。繊細な心に座を占め、長く留まることになるから。

イタリアの批評家で、文献学者アントニオ・プレーテがそうだ。子どもの頃、プレーテの家にアリという名前の可愛い子犬がいた。プレーテは今でもアリのことを考えると、2つの相反する姿を思い出すという。一つは陽が照りつける午後、オリーブの木の間でプレーテの隣で寝そべっていたアリの姿だ。これ以上の平和があるかと思われる牧歌的な風景。しかし異なる姿がそれに重なる。その翌日に見たアリの悲しい目だ。

悲しい事情はこうだ。アリが狂犬病にかかった捨て犬と喧嘩して噛まれ、傷を負った。大人たちは狂犬病が子どもに伝染するかも知れないと思い、アリの死を決めた。その時、プレーテはテーブルの脚に縛られていたアリの目を見た。その目は、人間が決めた自分の運命を分かっている目だった。「限りない悲しみ」と「世の中の苦痛」が目にこもっていた。人間のそれと相違ない悲しみと苦痛が。

プレーテは、成人になっても悲しみと苦痛を伝える子犬の目を忘れることができなかった。それは生涯癒えない傷だった。プレーテが苦痛を主題にした「同情について」という本で、最後の章を動物の苦痛に割いたのはその傷のためだった。動物園事業、娯楽性の狩猟、生体解剖、肉食のための屠殺の問題まで深く省察することになったのは、その傷のためだった。何か解決策があるわけではなかったが、それでもプレーテは問いをあきらめなかった。「生命に対するどれほどの大きな同情あるいは愛があれば、この無分別な苦痛の生産過程にブレーキをかけることができるのだろうか」、他者の苦痛、動物を含む他者の苦痛に対する関心は、このように子犬の目で始まった。その目にこもった悲しみと苦痛が、プレーテを深く温かい思惟に導いた。

文学評論家・全北大学教授