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渤海人、崩壊後200年間「渤海精神」守る

渤海人、崩壊後200年間「渤海精神」守る

Posted September. 17, 2019 08:28,   

Updated September. 17, 2019 08:28

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渤海が滅亡した後も、長く復興運動を展開した渤海遊民の歴史を扱った研究書が出版された。東北アジア歴史財団(金度亨理事長)は、海東盛国という称号を得た渤海が926年に契丹の侵入を受けて滅亡した後、遊民となった歴史を扱った『新しく見た渤海遊民史』(1万5千ウォン)を出版した。

編纂責任者のイム・サンソン同財団責任研究員は、契丹が渤海を滅ぼした後に建てた東丹国に注目した。東丹国は設立直後から渤海人の抵抗を受けた。これに対して、右次相(高位官職の一つ)の耶律羽之が「残った群れ(渤海遊民)が少しずつ繁殖すれば、恐らく後に災いとなるだろう」(遺種浸以蕃息 恐為後患)」と建議し、東丹国は928年に遼陽地域に移された。イム氏は、「これを拒否した一部の渤海住民は高麗や女真に逃げた」と説明した。

渤海が滅亡して200年近く経っても、渤海人は反遼闘争を行った。遼国で渤海人の存在様態を検討したナ・ヨンナム韓国外国語大学教授は、「1115年、金の建国に刺激された古欲が遼国に反乱を起こし、翌年には高永昌が大渤海皇帝と称し、一時遼東の50州を陥落させた」と説明した。

特に金での渤海人の活動は活発だった。司書に「遼陽渤海人」と記録された張浩(?~1162)は、金の太祖から何と5人の皇帝の下で官僚を務め、南陽郡王の爵位も受けた。韓国学中央研究院のパク・スンウ博士は、「高位官職を務めた人々の数と封爵の面で渤海人らは金の朝廷にかなりの足跡を残した」と指摘した。

東国(トングク)大学のファン・インギュ教授は、僧侶と信徒、寺院と遺跡に分けて渤海遊民が文化的アイデンティティを守った「渤海仏教」の跡にスポットライトを当てた。

イム氏によると、中国の学界が渤海を自身の歴史と見なしたのは今日の「国民」の概念に近い「中華民族」を主張してからだ。イム氏は、「渤海遊民は渤海滅亡後約200年間、どこに暮らしても契丹人、宋人、高麗人ではなく渤海人を自称し、そのように分類された」と明らかにした。


趙鍾燁 jjj@donga.com