Go to contents

広開土大王は太王陵ではなく将軍塚に埋葬

広開土大王は太王陵ではなく将軍塚に埋葬

Posted August. 21, 2019 09:42,   

Updated August. 21, 2019 09:42

한국어

出土した瓦当(軒丸瓦の先端の円形部分)を根拠に広開土大王が埋葬された王陵が太王陵ではなく将軍塚である可能性を主張する研究が発表され、注目を受けている。

ハンバッ大学人文教養学部の孔錫龜(コン・ソクク)教授は、学術誌「高句麗渤海研究」の最新号に掲載した論文「蓮華模様の瓦当で見た広開土大王陵の比定」で、「いくつかの瓦当や銘文瓦などの遺物を総合して、広開土大王が太王陵に埋葬されたと見ることは難しい」とし、「広開土大王陵は将軍塚だろう」と指摘した。

高句麗国内城があった中国集安市には、高句麗王陵が散在している。大衆的には広開土大王陵は太王陵、長寿王陵は将軍塚と理解されているが、学界ではまだ定説がない。中国の学界は、広開土大王陵は太王陵と見ているが、韓国と日本の学界では太王陵説と将軍塚説がある。

孔氏は、中国側が出版した発掘報告書を通じて、出土した遺物を比較分析した。孔氏はまず、集安市にある別の高句麗古墳、千秋塚を広開土大王が改善・補修したと考えた。千秋塚から広開土大王の生前の年号「永楽」が刻まれた瓦が出土したためだ。また、千秋塚から出土した6枚の葉の蓮華模様の瓦当の制作時期も広開土大王の時と見た。広開土大王が千秋塚を改善・補修する過程で、「永楽」銘文瓦とこの瓦当を共に制作して使用したということだ。孔氏はこの瓦に登場する「未」の文字を干支と見て、制作の時期は広開土大王在位17年の407年(丁未年)と判断した。

問題は太王陵でもこの瓦当と模様の構成方式などがほぼ同じ6枚の葉の蓮華模様の瓦当が出土したという点だ。孔氏は、「これは千秋塚と太王陵をほぼ同じ時期に改善・補修したという意味であり、太王陵も広開土大王時代の『永楽』に改善・補修したということを意味する」と指摘した。これによると太王陵は広開土大王陵にはなれない。王の死後、葬儀の一環で王陵が建設されたことを考えると、広開土大王が生前に墓を改善・補修したというのは辻褄が合わないためだ。孔氏は、太王陵に埋葬された主は広開土大王の先代王の故国壌王と見ている。

では広開土大王はどこに埋葬されたのだろうか。これも瓦当にヒントがある。太王陵と将軍塚からいずれも8枚の葉の蓮華模様の瓦当が出土した。これも形がほぼ同じなので、同じ時期につくられたと見える。孔氏は、「長寿王が父親の墓である将軍塚を築造してこの瓦当を使い、祖父の墓である太王陵もこの瓦当で改善・補修したのだろう」とし、「将軍塚の主は広開土大王」と主張した。

将軍塚から蓮華模様の瓦当が一種類だけ出土したのも、このような情況を裏づける。将軍塚は築造された後、改善・補修されなかったと見えるためだ。孔氏は、長寿王が427年に平壌(ピョンヤン)に遷都した後、王室が直接祭事を行うことが難しくなった状況が反映されたようだと説明した。


趙鍾燁 jjj@donga.com