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古典の傷

Posted January. 29, 2020 07:21,   

Updated January. 29, 2020 07:21

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古典といわれる作品が、特定の言葉や表現のために誰かを大きく傷つけるとしたらどうだろうか。マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」は、このような質問をさせる小説だ。白人はこの小説を、「米近代文学の出発点」とみており、トウェインを「米文学の父」と称える。しかし、そのような評価が、黒人たち、特に若い黒人の児童生徒たちがこの小説を読みながら受ける傷を防ぐことはできない。200回以上も繰り返される単語のためだ。

黒人を卑下する表現である「ニガー(nigger)」がその言葉だ。残念ながら、私たちの人種偏見によって、古くから韓国語でも翻訳されて通用する侮辱的な言葉… 。黒人が苦しまなければならなかった恥辱と血の涙の歳月が集約されている言葉だ。黒人詩人ラングストン・ヒューズが語ったように、黒人にとって、それは「牛に赤い布を突きつけるのと同様な」挑発的な言葉だ。奴隷の子孫は、もはや奴隷ではないからといっても、アフリカ人たちを獣のように捕獲して、大西洋の向こうに引っ張ってきて獣のように働かせた野蛮な歴史が消えるわけではない。黒人はその言葉を聞いた瞬間、屈辱の歴史とまだ続く人種差別の現実を思い浮かべる。「ほぼ完璧な小説」という評価を受ける「ハックルベリー・フィンの冒険」が持っている問題は、まさにこれである。実はこの小説は、間接的ではあるが、奴隷制度を告発する小説だ。しかし、黒人を同情する視点から書かれたからといって、二ガーという言葉が200回以上、もっと正確に言えば213回も繰り返されることが正当化されることはない。

黒人で初めてノーベル文学賞を受賞したトニ・モリソンさえも、中学校の時にトウェインの小説を読んで、「声のない怒り」を感じたという。ところで、この小説が古典だという理由で、米国の一部の中高校ではまだ読まれる。歴史的な傷は、そのように放置すれば、癒されずにかえって悪化するが、全く妙なサディズムである。いくら良い作品であっても、誰かを傷つけることになれば、そのポストが危うくなる。古典の徳目は癒しにあるから。

文学評論家・全北(チョンブク)大学教授