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公州・公山城には百済王が住んだだろうか

公州・公山城には百済王が住んだだろうか

Posted December. 25, 2019 07:34,   

Updated December. 25, 2019 07:34

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忠清南道公州市(チュンチョンナムド・コンジュシ)の公城(コンサン)城は熊津(ウンジン)百済の王城だろうか。公山城発掘現場で、王宮の門のような出入り施設と大規模土木工事の跡が確認され、注目を集めている。公州市と公州大学博物館が昨年6月に始めた発掘調査で、王宮と推定される地区に出入りする道と関連のある施設を作るため、国で行った土木工事の跡を確認したと、文化財庁が24日明らかにした。

今回発見された出入り施設は、門闕(宮の門のような施設)の形で両側に長さ50メートル、幅35メートル、深さ3.5メートルの大規模の盛り土固めをした構造だ。固めた傾斜面には川の石と割石を敷いて流出を防いだ。この出入り施設につながっている広くて平らな広場からは、柱列が30メートル以上にわたって発見された。また、最北端の高台からは地面より高い複数の壇を作っていた痕跡も見つかり、国家または王権の地位と密接な関連があるものと推定される。

今回の発掘は、公山城が百済が漢城(ハンソン)から熊津に都を移しながら築造した大規模の国家施設であることを見せている。発掘壇は、「門闕施設は、大門闕と推定することができる」とし、「大規模の盛り土固めや外壁保護施設のような土木構造は、漢城百済の王城である風納(プンナム)土城で確認され以来、最大規模の百済の土木工事の跡と言える」との見方を示した。


趙鍾燁 jjj@donga.com