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「拉致ではなく拉致誘導の可能性」 朝鮮中期・安龍福の1回目の渡日の性格巡り新説

「拉致ではなく拉致誘導の可能性」 朝鮮中期・安龍福の1回目の渡日の性格巡り新説

Posted August. 09, 2019 09:48,   

Updated August. 09, 2019 09:48

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朝鮮中期、奴婢身分のとある漁師がいた。外国語が上手だった彼は、外国に連れていかれたが、大きな島が朝鮮の領土だと強く主張して、外国政府から公式文書を受けた。ドラマチックだが、蓋然性は低いようなこの物語は、粛宗(スクジョン)の時の実在人物である安龍福(アン・ヨンボク)の行跡だ。もしかしたら隠れた背景はないだろうか。

安龍福の1696年の2回目の渡日は、少論政権の密使派遣だったという説を出したチェ・ヨンソン韓国伝統文化大学教授が、1693年の1回目の渡日の性格について新しい主張をした。チェ教授は最近の論文で、「鬱陵島(ウルンド)爭界を触発した安龍福の1回目の渡日は、日本漁師に拉致されたのではなく、安龍福が故意に拉致を誘導した可能性が高い」と明らかにした

チェ教授はまず、1回目の渡日当時の日本の対応が自然ではなかったと主張した。

日本は、安龍福を囚人として扱ったが、後で漂流民としてもてなしたが、そのもてなしが過度に丁重だったという。何か口にできない事情があるように見えるのだという。

「米子で朝鮮人の口書(陳述書)及び(彼らが)所持していた3通の書、小さな刀(小刀)1本を江戸に送った」

安龍福が滞在していた鳥取藩の公式日誌である「控帳」の1693年4月30日の記録である。陳述書と一緒に江戸幕府に飛脚を立てるほど重要な「書3通」を、なぜ偶然拉致された漁師が持っていたのだろうか。「書3通」について、また他の日本史料である「御用人日記」では「懐に秘めた書付3通」(懷中之書付三通)と書かれている。チェ教授は、「書3通」は鬱陵島(ウルンド)関連の内容なのか、朝廷の人物が日本に送る手紙か、身元保証書かはわからないが、1回目の渡日は単なる拉致ではなかったことを裏付ける状況証拠だ」と語った。

安龍福一行の持ち物も尋常ではない。チェ教授は、安龍福と一緒に拉致された朴於屯(パク・オドゥン)が手にした「包み」は、重要なものを包むときに使う「絹風呂敷」に翻訳するのが正しいと見た。笠、打帶もあったが、打帶は士大夫が盛装する時に使う冠帶のこと。一方、漁獵ツールはフック一つだけだった。チェ教授は、「持ち物も、安龍福一行が普通の漁師ではなかったことを示唆している」と述べた。

「鳥取藩史」などには、安龍福が拉致された一年前の1692年にも、アワビ取りをしていた朝鮮人と日本人漁師たちが鬱陵島で衝突し、対話をした記録が出てくる。チェ教授は、「朝鮮と日本の漁師たちは毎年鬱陵島で出くわし、朝鮮漁師の中に日本語ができる人がいたのだ」とし、「安龍福は1692年から鬱陵島から渡日する機会を覗き見ていた可能性があると推測する」と語った。

チェ教授は、安龍福が江戸に実際に行ったのかについての議論に関しては、「拉致と直接関連のある大谷家の古文書に、一行の江戸行が記録されており、「竹嶋紀事」の9月4日付に掲載された「朝鮮人口上書」には、一行が『34日間鳥取に滞在した』と書いてある」とし、「この期間に安龍福が密かに江戸に行った可能性がある」と語った。


趙鍾燁 jjj@donga.com