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最後の飛行

Posted January. 15, 2019 07:53,   

Updated January. 15, 2019 07:53

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文学家であり戦闘機のパイロットでもあったサン=テグジュペリは、第二次世界大戦に自ら志願して参戦した。彼は数回の飛行事故で障害を負い、年齢もすでに40歳を越しており、パイロットとしては不合格という判定を受けた。自由な魂の持主だった彼は、軍生活に似合わない一風変わった行動をたくさん行っていた。

しかし、軍から追い出されれば、人脈を駆使して再び軍に復帰したこともあった。ミッションは、主に偵察飛行だった。彼が操縦したライトニング機は、米国の双発高速戦闘機を改造した偵察機だった。速度は早かったが、武装もなく、他の戦闘機の援護もなかった。第2次大戦の初期の経験をもとに書いた手記「戦闘パイロット」は、孤独な偵察飛行の危険性を正しく描写している。この本は、無防備の状態で進む偵察飛行がどれほど無謀で恐ろしい任務なのかを詳細に描写した。

1944年、コルシカに駐屯する偵察飛行隊で活躍していたサン=テグジュペリは、七回の偵察飛行後も飛行を続けたいと上官にせがんだ。1944年7月31日。彼は8回目の飛行に出た。そして戻ってくることはなかった。

何が彼をあれほど空に惹きつけたのかは、誰も知らない。死ぬ前、彼はすでに十分な名声を得た有名人だった。敵国であるドイツ軍のパイロットの中にも、彼の本を読んでパイロットになりたいと決心した人がかなり多かった。サン=テグジュペリを撃墜したと告白したドイツ軍のパイロットは、「私が撃墜した人がサン=テグジュペリであることを知っていたなら、絶対撃たなかっただろう」と語った。

8回目の飛行に出なかったなら、サン=テグジュペリの人気はますます高くなっただろう。一部の人々は、彼を親ドイツ派だと非難したが、祖国フランスへの愛国心は軍で十分証明された。

ひょっとすると、自身の良心と義務感からかもしれない。サン=テグジュペリは、彼が得た名声と人気のために、むしろより重い義務感と使命感に押されていたのではないか。

世の中には二種類の人がいる。地位と名声が高くなれば、より多くの責任を感じる人。そしてそれとは逆に権力と人気を握って責任を手放す人。元々人間界にはサン=テグジュペリのような人よりは、そうでない人のほうが多い。特に韓国社会では、「そうでない人」があまりにも多いようだ。


李恩澤 nabi@donga.com