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李重煥の擇里志の正本を完訳、8年間の汗がついに実を結ぶ

李重煥の擇里志の正本を完訳、8年間の汗がついに実を結ぶ

Posted November. 07, 2018 07:22,   

Updated November. 07, 2018 07:22

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「李重煥(イ・ジュンファン、1690~1756)は、士大夫が住んでいるところは薄情であり、士大夫が住んでいないところを住居地として選ぶべきだと極端な話をしたんです。党派に分かれて、他の党派を認めず、一般市民ばかり脅す朝鮮の士大夫に警鐘を鳴らそうとしたわけですね」

成均館(ソンギュングァン)大学の安大會(アン・デフェ)漢文学科教授(57)は、2012年から7年間の作業の末、200種以上に上る李重煥の「擇里志(テクリジ)」の異本を整理し、ハングルに移した「完訳正本擇里志」(ヒューマニスト)を発行した。最近、ソウル鍾路区(チョンノグ)にある成均館大学の研究室で会った安教授は、「李重煥が『朝鮮には、住めるだけの土地がない』と主張したのは、士大夫たちの党派による組み分け、地域と士農工商の身分差別に絶望したからだ」と語った。

李重煥は、南人の名門家のエリート出身だったが、老論が景宗(キョンジョン)への毒殺を試みたといういわば「睦虎龍の告変」に巻き込まれて、30代前半に死ぬほどまで拷問を受け、政界から追放された。擇里志は、彼が1751年頃に国土の地理現象を全面的に扱った人文地理学の古典だ。

これまで翻訳された擇里志は、そのほとんどが1912年に崔南善(チェ・ナムソン)が編集・出版した光文會本・擇里志を底本としたが、誤字脱字や後代に加えられた物語が少なくなかった。崔南善が民族主義的観点から、内容の一部を編集した。

その一例として、従来は「卜居論」で、「徳裕山(トクユサン)の精機が漂う山並みは西に伸びて馬耳山(マイサン)とチュタク山になり」と翻訳されていた文章を、安教授は「…馬耳山になり、荒くて濁った(チュ濁)山並みは南に伸びて」と直した。「チュ濁」の前に接続詞の「而」がある版本が正しいと見たからだ。本には、このような矯正と監修の過程を説明した注釈だけで800件近くつけられている。それも10分の1に減らしたものだ。光文會本で「咸鏡道(ハムギョンド)」分量の30%近くを占める「咸興差使」の物語も後代に加えられたものと見て入れなかった。

「一、二文字だけ違っても意味が完全に異なります。国学で正本化は基礎であり、根幹です。正確な版本をもとにしなければ、研究は砂上の楼閣になりますね」

安教授は、「欧州や日本では、主な古典の正本化をずいぶん前に完了したが、韓国ではまだほとんどできていないのと同じだ」と強調した。しかし、その重要性と費やされる努力に比べれば、韓国の学界では正本化作業をあまり認めない。研究成果の評価は、主に論文本数中心となっている。著述や翻訳も若干認めているが、異本を整理して正本テキストを作ることは、ほとんど成果として認めてもらえない。研究費の支援も受けにくい。安教授は、異本の作業をあまりにも多くこなしたので、視力までが悪くなった。

擇里志の正本化は、博士課程の研究者たちとの共同作業で可能だった。各地域の物語に登場する当代有力一族がどの家門なのかを一つ一つ探し出した。

「擇里志は疎外された南人の視覚を盛り込んだ党論書、経済的地理書、旅行ガイドなど、複数の性格を持っています。『戦時に避難できるところがあるのか』を暮せる所の主な基準としたことを見れば、壬辰倭乱(慶長の役)や丙子胡乱の戦争トラウマが作り出した本でもありますね。現代も極端な争いと不平等、差別のせいで人々は『移民に行きたい』と愚痴をこぼすでしょうね?当代の朝鮮の現実を懸念し、改善を促した李重煥のメッセージは、今日も有効です」(安教授)


趙鍾燁 jjj@donga.com