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司馬遷の平和論

Posted December. 03, 2019 07:36,   

Updated December. 03, 2019 07:36

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『史記』の著者、司馬遷は、漢の武帝の過度な戦争とそれによる深刻な財政浪費、功績を立てた臣下を些細なことで処罰したり左遷したりする冷たい態度に批判的だった。戦争と統治スタイルが影響を与え合い、武帝がさらに苛酷で冷酷に統治し、民の暮らしが苦しくなったと見たようだ。

司馬遷自身はこの2つの犠牲だった。司馬遷は匈奴との戦争で発生した名将、李広一族の悲劇に同情的だった。武帝が、李広の息子の李陵が匈奴に降伏したことを理由に一族を抹殺するよう命じると、司馬遷は李陵を弁護して宮刑に処せられた。

 

司馬遷は、武帝の統治を批判する代わりに、その反対だった武帝の祖父の文帝の統治を称賛する。文帝は、臣下が南越と朝鮮が漢の統治に服従しないため征伐しなければならないと建議すると、このように話す。「兵器は凶器だ。武力で望むことを成し遂げることができたとしても、戦争をすれば財物を消費し、民を遠い国境に送らなければならない。どうしてそんなことができようか。」司馬遷は戦争ではなく平和を選んだことで、文帝時代に民は税の負担が少なく、農作業に専念して物資が豊かになり、暮らしが潤沢で幸せになったと話す。

だからといって司馬遷が盲目的な平和主義者というわけではなかった。史記の律書で司馬遷はこのように話す。「家を治める時、訓戒と処罰をせざるを得ず、国を治める時、刑罰を捨てることはできず、天下の次元で征伐(戦争)をやめることはできない。運用を正当に適切にしなければならない。」

司馬遷があえてこう話した理由は、世間を知らずむやみに徳を語り、無条件に傭兵に反対する人がいたためだ。さらに、このような主張をして国を失ったり外敵の侵攻で国力が衰弱したりした事例が十分にあるにもかかわらず、このような部類の知識人は頑なに自己主張だけしてびくともしないと嘆く。私たちは司馬遷から2千年の経験を蓄積したにもかかわらず、今もなおそうだ。