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韓日関係の改善に貢献した「日本保守の源流」…中曽根康弘元首相が死去

韓日関係の改善に貢献した「日本保守の源流」…中曽根康弘元首相が死去

Posted November. 30, 2019 09:22,   

Updated November. 30, 2019 09:22

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1980年代、日本で「戦後政治の総決算」を掲げて5年間内閣を率いた「日本の保守の源流」中曽根康弘元首相が29日、死去した。享年101歳。

共同通信とNHKは、同日午前7時22分頃、東京のある病院で、中曽根氏が持病で他界したと報じた。

1918年5月、群馬県高崎市で木材問屋を営む家に生まれた故人は、東京大学法学部卒業後、内務省に入省して公務員として社会生活を始め、終戦直後の1947年、29歳の若さで自民党衆議院議員に当選し、政界に足を踏み入れた。科学技術、防衛、輸送、通産などの分野で長官を務め、自民党内では総務会長、幹事長などの要職も歴任した。1982年11月から87年11月までの5年間、首相(第71~73代)を務め、国鉄(現JR各社)や日本専売公社(現日本たばこ産業、JT)など赤字に苦しむ国営企業の民営化、増税なき財政再建などの行政改革に臨み、当時「大統領級首相」と呼ばれるほど強いリーダーシップを発揮した。首相在任期間は1806日で、安倍晋三首相、佐藤栄作元首相らに続き歴代5番目に長い。衆院議員当選20回の記録を持つ中曽根氏は、2003年に政界を引退した。

中曽根氏は生前、「保守の源流」というニックネームで呼ばれた。第2次世界大戦の時、20代の青年だった中曽根氏は、戦争を直接経験して、革新ではなく国家と伝統を守る保守の道を選んだという。中曽根氏はこのために米国の主導で作られた「平和憲法」を改正し、軍隊の保有、自主防衛が必要だと主張してきた。85年8月15日の敗戦記念日には、A級戦犯が合祀されている靖国神社を首相として初めて参拝し、韓国や中国など近隣諸国から非難を受けた。中曽根氏はその後は参拝しなかった。

外交では米国との関係改善に力を入れた。故ロナルド・レーガン米大統領(当時)と「ロン」、「ヤス」と呼び合って蜜月関係を築いたことは有名だ。このような背景のもと、中曽根氏は日本列島について「絶対沈没しない空母のようにする」という意味の「不沈空母」発言をした。当時、ソ連を牽制するために米国と日本が結束する必要があり、また、日本がソ連に対抗する重要な前哨基地であることを強調したのだ。中曽根氏は当時、米国に米軍駐留経費負担増額を求められ、国内総生産の1%以内に防衛費を抑えるという方針「1%ルール」を破る予算を編成した。

保守の要人に選ばれるが、同時に韓国との関係改善に乗り出した「知韓派」としても知られている。60年代初期、韓日国交正常化に深く関与し、83年の首相時代に初めての海外訪問国に韓国を選んだ。中曽根氏は当時、「日韓両国の不幸な過去があったことは事実だ。日本はこれを厳粛に受け止めなければならない」と述べるなど、65年の日韓国交正常化後、日本の指導者としては初めて過去に対する反省の意を表わした。中曽根氏の著書『保守の遺言』によると、訪韓当時、晩餐会で、平素NHK韓国語講座で勉強した韓国語で挨拶をした。

安倍氏は同日、談話を発表し、日米同盟、アジア諸国との関係強化など「戦後史の大きな転換点にあたってかじ取り役を果たされた」と称えた。自民党は長男の中曽根弘文参議院議員名で家族葬儀を行うと明らかにした。


東京=キム・ボムソク特派員 bsism@donga.com