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3・1独立運動、民間人死者553人のうち平安道が231人で最多

3・1独立運動、民間人死者553人のうち平安道が231人で最多

Posted October. 26, 2019 09:21,   

Updated October. 26, 2019 09:21

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朝鮮総督府は、非暴力・平和主義を標榜した3・1運動に対して初日から銃を発砲する暴圧的な方法で対応した。1919年3月1日、朝鮮総督の長谷川好道は、京城で独立万歳運動が起きた直後、声明を発表する。「(3月)3日に行われる(高宗の)国葬を控えて、哀悼の至情に代わって荒唐無稽なデマで民衆を扇動し、無礼なことを強行する群れがいるなら、容赦なく厳重に処罰する」(朝鮮総督府官報、1919年3月1日)。大韓民国歴史文化院のイ・ジョンウン院長は、「朝鮮総督府の『厳重処罰』の方針が事実上、日本の憲兵の発砲命令につながった」と指摘した。

暴圧的蛮行の多くが平安道(ピョンアンド)地域で起こった。平安南道成川(ピョンアンナムド・ソンチョン)では3月1日、秩序を持って行進していたデモ隊に対して憲兵が銃を発砲し、カン・シンヒョクさんがその場で死亡し、住民12人が負傷した。平壌(ピョンヤン)では同日、銃で撃たれて負傷した5人が病院で死亡した。2日にも平安南道江西郡(カンソグン)で、憲兵は独立万歳の声がすると発砲を始め、一人の男性が頭に銃弾に受けて即死した。憲兵は、逃げる幼い少年の背に銃弾を浴びせた(在韓宣教師報告資料、1919年3月6日)。

日本は、万歳運動が拡大すればするほど狂奔し、被害規模は拡大した。3月4日、平安南道江西郡の沙川(サチョン)市場で死亡者9人(韓国側記録50人)、9日、寧遠郡(ヨンウォングン)で数十人の死傷者を出た。10日には孟山(メンサン)で最大規模の集団虐殺が起こった。

朝鮮総督府の「朝鮮騒擾事件の総計一覧表」(1919年6月30日)によると、3・1運動当時、民間人の死亡者553人のうち平安南道が124人で最も多かった。平安北道(ピョンアンプクト)が107人で後に続いた。日本が縮小・歪曲した統計でも、全死亡者の40%が平安道地域で発生した。

イ院長はこれについて、「平安道地域はキリスト教や天道教など反日意識が強い宗教団体が3・1運動を組織的に主導した」とし、「日本は宗教家を攻撃することで万歳運動の瓦解を狙った」と指摘した。実際に、天道教の勢いが強かった平安南道の場合、天道教組織が瓦解し、3月11日以降、万歳運動が急減した。


アン・ヨンベ記者 ojong@donga.com