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低姿勢の建築美学

Posted October. 02, 2019 07:40,   

Updated October. 02, 2019 07:40

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「国籍・大韓民国、韓国名・庾東龍(ユ・ドンヨン)。しかし、日常の生活は日本に暮らす建築家、伊丹潤。韓国と日本のどちらからも常に異邦人という視線を受けてきた孤独な建築家。私の父」

自分の名前より伊丹空港の伊丹と韓国の音楽家、吉屋潤(キル・オクユン)の「潤」を合わせて作った芸名、伊丹潤で有名な世界的な建築家、庾東龍。彼を父とする建築家のユ・イファ氏の言葉だ。父の最後の散文集『手の痕跡』の韓国語版の序文で言った言葉だ。

在日として苦しい生活を送ってきた父親に対する思いがにじみ出ているが、逆説的に異邦人としての実存が、伊丹潤の建築と芸術の源泉だった。ディアスポラの人生は他者との関係を前提とする実存的な人生だった。伊丹潤が疎通に特に注目するようになったのは、そのためだった。彼はどこに建築物を建てようと「風土、景色、地域のコンテキスト」を重視した。建築は本質上、自然を侵害するが、それでもどうにか異物感をなくして自然と調和を作り出さなければならなかった。

彼が建てた済州島(チェジュド)のバンジュ教会も、関係と意思疎通が核心のテーマだった。建築物が水、風、石、木、光、空と自然に交わることが何より重要だった。中に入っても不透明な壁で遮断せず、木とガラスの反復的な配列を通じて光と世の中が「水を渡って」入ってくるようにしたのは、疎通への意志だった。よく見てやっと分かる十字架を体に付けて、あらかじめ言わなければ、教会の建物だと簡単に分からないようにしたのも、自分を下げて疎通を重視した結果だった。ノアの方舟をモチーフにした建物は、自然の前に自分を低くした結果だった。謙虚な低姿勢の建築美学。

そのためか伊丹潤が西帰浦市安徳面(ソグィポシ・アンドクミョン)の丘に設置した方舟は、近代史の痛みを抱いた済州の人々に自分の懐を喜んで差し出すようだ。彼らが傷と苦痛と涙を克服して安全な航海ができるように。本当に今からでも。