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人生はピクニック

Posted June. 27, 2019 08:59,   

Updated June. 27, 2019 08:59

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険しい崖の上に一人の男が立っている。濃い緑のコートを着て、長い杖をついているこの男。短い髪を風になびかせて、霧深い景色を眺めている。目の前に広がる壮観に感心しているのだろうか。巨大な自然の前で、取るに足りない自分の存在を自覚しているのだろうか。後ろ姿なので、彼の表情は全くわからない。

ドイツの浪漫主義画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒが描いたこの絵は、大自然に向き合った孤独な旅行者の後ろ姿を示す。彼の風景画は、心地よい鑑賞よりは、気がかりと省察を引き起こす。絵の中の男は、戦死したドイツ軍将校や普通のクリスチャンの象徴として解釈されるが、画家の自画像という主張もある。事実モデルの正体は重要でない。フリードリヒは、匿名性、普遍性を付与するために意図的に人物の後ろ姿をよく描いたからだ。

男は今、急な岩山の頂上に登って、崇高で驚異的な光景を見つめる。画家は、彼の後ろ姿を前景に配置して、鑑賞者も同じ風景に没頭するように誘導する。絵の中の背景は、ドイツとチェコの間のエルベ砂岩山脈で、戦争で家を出て過ごしていた画家が、旅行中にむやみに上った山だった。

人生の旅は、多くの場合、登山に例えられる。頂上に到着したというのは、人生のピークまたは最後に到達したという意味だ。男は今、さらに進むところのない生涯び最後の地点に立っているようだ。フリードリヒは、「目の前にあるものだけでなく、内面に見えるものまで描かなければならない」と言っていた画家だ。それなら、今はこの男が見る光景は、彼が想像する天国の姿か、それとも生の最後の瞬間に眺める激しかった過去の人生の風景かもしれない。

詩人の千祥炳(チョン・サンビョン)は人生をピクニックだと主張した。「美しいこの世界が遠足が終わる日、行って美しかったって話したい」・彼の時「帰天」の最後の部分だ。私たちも遠足を終える日、あの放浪者のように頂上に一人で立つと、美しい遠足だったと言えるだろうか。



キム・ソンギョン記者 tjdrud0306@donga.com