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ジョゼと久美子

Posted June. 19, 2019 08:49,   

Updated June. 19, 2019 08:49

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アーティストたちはしばしば、他の芸術家たちのものを借りて創造的に専有する。一時人気を集めた映画「ジョゼと虎と魚たち」の原作者である田辺聖子もそうだ。彼女は、フランソワーズ・サガンの小説「一ヶ月後、一年後」に出てくる人物の名前を借りて、障害と関連した深い理由を繰り広げる。サガンの小説に出てくるジョゼは、若くて裕福で、はばかることのない25歳の女性である。同じ歳であることを除けば、田辺の小説でジョゼと呼ばれる、下半身の不自由な生活保護対象者である久美子と似た点がないように見えるが、必ずしもそうでもない。久美子がジョゼと呼ばれることを望むのは、ジョゼのように堂々としたいからだ。

実際久美子は障害者で、他人から助けを受けながらも堂々としている。彼女は障害者であれば、無条件に不完全な存在と見なして、同情や憐憫の感情から突きつける人々の目、その目が与える傷や侮蔑感が嫌いだ。やや大げさに高圧的で神経をとがらせた姿勢で他人に接する理由である。たまたま自分のそばを守ることになったボーイフレンドにはなおさらそうだ。愛は同情ではなく、愛そのものであるべきだという論理だ。彼女は彼氏がいつ自分のそばから離れるか分からないが、その別れさえも喜んで受け入れたいと考えている。障害が自分を含め、誰の足も引っ張らないようにするという誓いである。驚くべき自尊心である。動物園のトラの恐ろしい目を見てボーイフレンドの胸に抱かれることも、水族館の魚たちを見ながら、ひたすら幸せを感じることも、その自尊心があってこそ可能である。そういえば、方向は違っても、自分の若さを盲目的な愛に明け渡したサガンのジョゼと同様の面がある。

ジョゼ、いや久美子は、憐憫や同情の対象であることを拒否し、自分が行動と考え方、生活の主体であることをはっきり示す。障害より人間性が先であり、障害者である前に、個別の人格だという無言の宣言であるわけだ。憐憫や同情の限界に注目しながら、これよりさらに深く、暖かく障害に関連する理由を繰り広げることも難しい。



キム・ソンギョン記者 tjdrud0306@donga.com