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判断と選択は国民の権利だ

Posted June. 07, 2019 08:47,   

Updated June. 07, 2019 08:47

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韓国の近現代史を研究する人々は、白黒論理的意識構造と思考がどれほど大きな不幸の要素だったのかを疑わない。実際、現実には完全な黒と白は存在しない。その中間の灰色があるだけだ。明るい灰色と濃厚な灰色の違いがある。しかし、私たちは、互いを灰色分子だと排斥する。自身がその中の一人でありながら。社会生活には絶対的価値がないということが分からなかったのだ。

そのような現実は、私たちだけの問題ではない。近代化の過程を主導してきた西欧社会も例外ではない。経験主義の伝統を育成・発展させてきたアングロサクソン社会を除く大陸国家も似た過程を踏んだ。彼らの合理主義の精神は受け入れることができる。しかし、ドイツの観念論的弁証法は、世界的共感を受け難い。代表的なヘーゲルの哲学を指して、「彼は巨大な観念の宮殿を築いたが、自身はその中で生きられず、入口にある守衛室で暮らした」という酷評もあった。実用主義者らは、観念哲学者を「家を土地で築き上げず、空から築き下げる」と風刺した。

そのような精神的観念論を物質的基盤の上層構造に転換させ、すべての社会生活の基礎は経済から出発し、物質的価値に還元すると主張した思想家がカール・マルクスだった。経済的な生産性如何によって社会構造は変わると考えた。その生産と消費の最善の方法は、共同生産と消費社会だと主張した。当時の資本主義の問題と矛盾を解消するユートピアへの過程と見たのだ。しかし、重要なことは、その経済社会学的弁証論が矛盾論理に従うため、私たちが憂慮する白黒論理と違いがなかったという点だ。歴史的現実を改革する目的のために、中間が排除された対立と闘争の過程を選んだ。権力を前面に出す矛盾論理は、闘争と時には革命までも強行することになる。階級闘争と文化革命はそのような危険性を抱えている。

しかし、白黒よりさらに進取的な共産主義も、経済水準が高い社会では拡張されなかった。自由経済を信奉する経験主義の国家が常に国民生活の上位を占めたためだ。日本は一時、マルクス思想に陶酔したようだったが、いま共産主義に従う人は探すことも難しい社会になった。
 
今になって、そのような過去をなぜ問題視するのかと言う人もいる。そのような人は自己矛盾と撞着に陥っている。私たちは、北朝鮮の同胞と共存しなければならないためだ。理念と政権の相違は解消することが難しくても、同胞愛を人間愛に昇華させ、自由とヒューマニズム溢れる統一は民族的課題だからだ。

ならば、私たちに与えられた課題は何か。皆が認める社会科学の基本と原則を守って従わなければならない。「事実をその通りに見て、真実を求め、その真実に基づいて価値判断を下す責任だ。「事実を隠したり歪曲することは許されない社会悪だ。私たちが言論の自由を尊重し、知性人の良心を信じる理由がそこにある。マルクス主義者らと共に政治的理念のために真実を遮り虚偽を真実に装うことは、愛国的行為を裏切る犯罪となる。

価値判断とは何か。国家と民族の将来のための選択だ。この時、基準になるのは国民多数の選択だ。政府はそのような国民の選択に背を向けたり、拒否してはならない。国民全体の愛国心はもとより政治家も政権欲を前面に出す愚を犯してはならない。国民を政治的目的の手段とする政権は存在できないためだ。

問題は事実で真実を正さなければならないということだ。そして、判断は私たち皆の義務であり権利だ。きわめて常識的な例を挙げよう。

花園(チュンウォン)李光洙(イ・グァンス)は親日だった。同じ時代を生きた私たちは、李光洙の文学作品などから影響を受けたが、親日派になることはなかった。李光洙の変節が残念なだけだ。朴正熙(パク・チョンヒ)は反民主的独裁をした。しかし、執権期間に国民が絶対貧困から抜け出し、今日の経済基盤を構築する業績を残した。私たちよりも国際的な評価が高かった。私は教育界の何人かの先輩が親日派の名簿に載っているといううわさを聞いた。しかし、当時、彼らの情熱的な教育活動がなかったなら、自主独立の底力を育成できたか疑わしい。

すべての功績をすべて消してしまい、否定的な意味だけを残すなら、どのように民族が成長することができるだろうか。事実に対する価値判断は国民の役割だ。いかなる政権も理念的に二分することは与えられた課題ではない。


李恩澤 nabi@donga.com