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理想的な金持ち崔浚

Posted March. 08, 2019 08:15,   

Updated March. 08, 2019 08:15

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「金持ちは3代続かない」という言葉がある。しかし、「慶州(キョンジュ)崔富豪家」は、1600年代初頭から1900年半ばまでの300年間、12代にわたって富を享受した。最後の崔富豪に挙げられる崔浚(チェ・ジュン)は、いとこの義理の兄弟である朴尙鎭(パク・サンジン)が総司令である光復会の財務を担当して服役した。安熙濟(アン・ヒジェ)と独立運動の資金源である白山(ぺクサン)商会を運営し、大韓民国臨時政府の金九(キム・グ)主席に巨額の資金を送った。

慶州市校洞(キョドン)の崔富豪家は、旧韓末義兵と日帝時代に独立運動家の隠れ家だった。崔益鉉(チェ・イクヒョン)、申乭石(シン・ドルソク)、崔時亨(チェ・シヒョン)、孫秉熙(ソン・ビョンヒ)など、通り過ぎた人たちは数え切れないほど多い。光復(日本植民地からの独立)後は人材育成のために、残りの全財産を嶺南(ヨンナム)大学の前身である「靑丘(チョング)大学」と「大邱(テグ)大学」の設立に注ぎ込んだ。崔富豪家は歴史の裏に消え、今は家の子孫ではなく、嶺南大学で管理している。しかし、尊敬する富豪がほとんどいない大韓民国に「ノブレス・オブリージュ」の精神を残した。

崔浚の文字は、正方形に近く、仕上げ画の跳ねが強いうえ、角に強い折れが時々見えて、正しく意志が強かったことは明らかである。

壬辰倭乱と丙子胡乱に参戦して戦死した崔震立(チェ・ジニリプ)に続き、先生の独立運動は、崔富豪家の権威を立てた。柔軟で行間隔が非常に広く、穏やかで人を配慮する性格だったことが分かる。先生は格調と品格を持つ金持ちだったはずだ。崔富豪家の家訓も、「旅人を厚くもてなしなさい」、「飢饉の年は、他人の田畑を買ってはいけない」、「飢饉のときは糧を提供して、四方十里の中に飢え死にする人がいないようにせよ」という内容がある。このような寛大な思考のおかげで、崔富豪家は長い間、富を保ち、活貧党の炎の中でも生き残ったのだ。文字が比較的多くて無駄遣いの性向もあるが、気前がよく、勇気と社会性があったことが分かる。惜しい点は、文字の下の部分が上部より多く、手がけることがすべて竜頭蛇尾になる可能性があることだ。