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「津波による廃虚の中の女性の手が…」119救助隊員が記憶する東日本大震災

「津波による廃虚の中の女性の手が…」119救助隊員が記憶する東日本大震災

Posted March. 08, 2014 06:41,   

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「泥だらけだった。都市の跡形もなかった。つぶれた屋根の上には歪んだ車が乗り上げていた。泥の底には壊れた倉庫にあった飲料水の缶が散乱していた。ここが本当に人が暮らしていた所なのか…」

4日、京畿道南揚州市別内洞(キョンギド・ナムヤンジュシ・ピョルネドン)の中央119救助本部で会ったファン・ジェドン現場指揮チーム長(49=消防領)は、2011年3月11日に発生した東日本大地震の現場をこのように記憶した。ファン氏は大地震翌日の12日の1次先発隊に続き、14日に軍用機で2次救助隊102人と共に宮城県仙台に到着した。

現場は悲惨だった。地震による津波は道路と建物を飲み込んだ。泥まみれになったアルバムや家財道具からこの周辺が住宅街だったことが分かった。多くの火災や爆発現場に出動したファン氏だったが、このような光景は初めてだった。

3月の仙台にはひょうが降り、余震が続いた。不安が襲った。しかし、ためらっている時間はなかった。ファン氏は3つのチームのうち3班のチーム長を務め、救助作業に取り掛かった。「大地震が発生して2日が経過したが、『まだどこかに生存者がいる』と信じた。死者よりも生きている人を探さなければならなかった」。

韓国の救助隊は仙台の隅々を捜索したが生存者は見つからなかった。海辺のある学校の教室には子どもたちのカバンが積まれていた。その屋上では、津波に飲まれたと見える女性の遺体が発見された。泥に埋もれていた車の中に何か動くような物体が見えた。泥を取り除いてドアを開け、ファン氏は愕然とした。1人の男性がサイドブレーキを握ったまま亡くなっていた。救助隊は男性12体、女性6体の遺体を収拾した。遺体を布で覆い、礼を尽くして黙祷した。

当時、ロシア、米国、オーストラリア、ドイツ、中国など16ヵ国880人の救助隊が救助に当たった。しかし多くが途中で撤収した。津波で破壊された福島第1原発から出た放射性物質の数値が高かったためだ。しかし韓国の救助隊は最後まで仙台に残り、捜索活動を続けた。

ファン氏は、仙台のある木造住宅を捜索した時を忘れることができない。「家には誰もいなかった。その近くに家族の写真があった。子どものグローブやひしゃげた自転車も見えた。仲睦まじかった家族はどこへ行ったのか、胸が詰まった。今でも時々、あの時のことが鮮明に目に浮かぶ」。

取材に同行した朝日新聞の中野晃ソウル特派員は、ファン氏に「もし東日本大地震のような災害が再び発生した場合どうするか」と尋ねた。「助けが必要な所ならいつでも駆けつける。これ以上このような胸の痛む災害があってはならないが…」。