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女性の独立運動家

Posted August. 16, 2018 08:18,   

Updated August. 16, 2018 08:18

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「男たちはいたるところで独立を宣言し、万歳を叫んでいるのに…無知蒙昧で、体の弱い女の一団や、同じ国民、同じ良心の持主としてためらうことなく…同胞よ、早く奮起せよ」。1919年の3・1独立宣言より一ヶ月前に作成されたとされる大韓独立女性宣言書だ。中国の西間島で活動していた愛国婦人会が女性の独立闘争を励ますために書いた檄文だった。

◆3・1運動は男女の区別なく、全国民が団結した民族運動だった。女性では主に柳寛順(ユ・グァンスン)烈士だけが知られているが、17歳で3・1運動に参加して獄中で殉国した董豊信(トン・プンシン)烈士もいる。その翌年、これを再現して服役した培花(ペファ)女学校のキム・ギョンファ、パク・ヤンスン、ソン・ヘジャ、ソ・ウンミョン、アン・オクジャ、アン・ヒギョンなど「第2の柳寛順」も少なくなかった。2014年、いくつかの高校の韓国史教科書で柳寛順烈士を削除したが、柳寛順の代わりに斗山(トゥサン)教科書が紹介した人物が姜周龍(カン・ジュリョン)だ。夫と西間島で抗日武装運動をして、夫が死亡すると帰国して労働運動を行った。

◆独立運動家の夫を抱えた妻、息子を持つ母親の犠牲と毅然さは、粘り強い独立運動の礎であり、武器だったことだろう。1909年3月、「あなたの死装束を作って送るから、この服を着て行きなさい」と、死刑を控えた安重根(アン・ジュングン)義士を最後まで面会しなかった母親のチョ・マリ夫人。安義士の死後も臨時政府の世話をしていた母親も独立運動家だった。新興武官学校を設立した友堂李会榮(イ・フェヨン)先生の妻、イ・ウンスク夫人はどうか。両班家の一人娘として生まれ、ほかの地域で独立運動家たちのための食事を用意し、内職の針仕事で軍資金を当てながら、「西間島終始期」という記録まで残した。

◆それでも女性の独立運動は忘れられた歴史だ。全体独立有功者1万5000人のうち女性は3%に過ぎない。文在寅(ムン・ジェイン)大統領は光復節(日本植民地支配からの独立日)の祝辞で「女性の独立運動は深く埋もれてきた」と述べ、姜周龍と済州(チェジュ)海女抗日運動を主導したとコ・チャドン、キム・ゲソク、キム・オクリョン、プ・ドクリャン、プ・チュンファなど、女性独立運動家たちの名前を呼んだ。国を奪われた上、家父長制社会で女性の人生は二重、三重も過酷だったはずだ。手遅れになる前に、彼女らの激しい人生が完全に光を見ることを望む。


禹慶姙 woohaha@donga.com